イギリス映画の象徴:アストンマーティン(後編)
珍しく少し忙しくしていたので、大分遅れてしまった。
さて、前回は創業から1950年代のアストンマーティン社の歴史を見てきた。
創業したものの、支援者がレースで亡くなり経営難に。その後も安定せず、合計2回ほど危機に陥ったアストンマーティン。
戦時下でも余裕は生まれず、航空部品を生産することでなんとか生き延びることができた。
しかし戦後のDB傘下に入ると経営は少しずつ改善していったのだ。
というわけで、今回は1960年代から現在までの歴史を見て行きたい。
1960年代:とうとう映画に
1950年代後半から市販車を次々と発表し、1955年にはティックフォードを買収した。
この会社は、アルヴィスやヒーレーといった英国車のボディー製作を手掛けていた老舗会社で、買収したことにより、そこでボディー生産が可能になった。
DB2以降のボディーは同社が持つニューポート・パグネルにある工場で製作をしていた。
その後、ボディー以外も生産するようになり、スーパーレッジェーラ製法で製作された軽量ボディーの【DB4】、そしてそれにザガートが手を加えた【DB4ザガート】などがそこでデビューした。
1961年には、ラゴンダのブランドで【ラピード】が発表された。
従来の2ドアクーペではなく、4ドアの大型サルーンである。
これを機に、この後アストンマーティンが発表する4ドアサルーンのいくつかはラゴンダの名称が使われることとなった。
そして1963年。世界的に有名になる車種が誕生する。
【DB5】の誕生だ。
個人的には、ヴィンテージカーの中で一番好きな車種だ。
2年で約1000台ほど生産されたこの車は、【007 ゴールドフィンガー】でボンドカーとして抜擢され、世界的に知名度を与えた。
この影響は現在も続いており、この作品以降、この車はジェームズボンドの代名詞的な存在となった。
1965年には、DB5の後継として【DB6】が発表される。
一見変わっていないように見えるが、至る所でマイナーチェンジがあり、メッキバンパー部分や、エアコンの装備、パワステ装備といった豪華な装備が設定されたことが特徴に。
これにより、最大の市場であるアメリカでの販売を伸ばすなどして黄金期を築き上げた。
また、翌年1966年にはエリザベス2世が工場を訪問し、チャールズ皇太子に【DB6ヴォランテ】を贈るなど、王室でのプライベートカーとしても活躍する。
1967年には今までのDBシリーズからデザインを変更し、当時としてはモダンだったデザインを活用した【DBS】が発表される。
またデザインだけでなく、エンジンも変わっており、初期型は直列6気筒のままだったものの、1969年に新設計のV型8気筒エンジンのモデルが追加された。
このようにアストンマーティンの経営は安定しており、このまま順調に行くかと思われていた。
1970年代:危機、再び
DB傘下でのアストンマーティンは今まで以上にない安定した経営で、さらに新車種も多く産出するほど良い時代だった。
しかしそんなDB、【デイヴィッド・ブラウン・グループ】も安定は長く続かなかった。
1972年にはDBグループが経営不振に陥り、その結果、アストンマーティン経営権を手放さなければならなくなったのだ。
その後、【カンパニー・ディベロップメント】に100ポンドで経営権が移り、モデル名から【DB】が付かなくなった。
これにより、【DBS】は【V8】と車名が変更された。
これにより経営が安定するかと思われたが、さらに追い打ちをかけるように、今まで最大の市場であったアメリカで排ガス規制法が施行されたことにより、生産モデルが対応できず、1974年には販売が不可能になってしまった。
これにより、経営不振に再度陥り、翌年には従業員の解雇、工場の閉鎖などを実施した。
1975年にはカナダ人のミンデス氏、アメリカ人のスプラーグ氏、イギリス人のカーティス氏、フラザー氏、ターナー氏らで構成される投資家とアストンマーティン・オーナーズクラブによって救済ファンドに売却された。
このおかげで、工場が再開され、従業員が再雇用された。
また社名も【アストンマーティン・ラゴンダ・リミテッド】と変更された。さらに、今後の市場の拡大も判明し、日本やアメリカを含んだ全世界的な販売計画が明らかにされた。
このような援助の下、1976年には【V8ヴァンテージ】や【V8ヴァンテージ・ヴォランテ】、大型4ドアの【ラゴンダ2】などのニューモデルをデビューさせた。
さらに1979年には従来のデザインを大きく変更した【ブルドッグ】がデビューした。
当初は25台生産予定だったものの、試作車1台のみで市販は行われなかった。
1980年代:紆余曲折
1979年の第二次オイルショックにより不景気は引き継がれていた。
このため、本業である自動車生産は不景気のままで、再度従業員を解雇するなど、経営削減を行わなければならなくなっていた。
しかしながら1981年、経営の安定化を図る目的で、石油開発兼流通企業の【ペース・ペトロリアム】を経営するイギリス人実業家のガーントレット氏に株式が売却された。
これにより、経営の安定を取り戻すことができ、エンジニアリング開発子会社を設立するなど、事業の多角化を図った。
さらに、【007 リビングデイライツ】に【V8ヴァンテージ】をボンドカーとして出演させたり、そのザガートモデルである【V8ヴァンテージ・ザガート】などを発表した。
これにより経営は安定したものの、今度は生産設備が古すぎるといった問題や、燃費向上の問題といった経営に直接的に関わる、生産活動において重要な部分の投資は行われなかった。
そんな中、フォードは欧州の高級車メーカー買収に力を入れていた。
前のジャガーも買収されたように、アストンマーティンにもこの話があったようだ。
当時のフォードヨーロッパの代表だったヘイズ氏とガーントレット氏がイタリアクラシックレースのミッレミリア参加メンバーのパーティーで同席したことからアストンマーティン買収が決まったのだ。
これにより、1987年にはフォードに株式の売却を行い、傘下に納まることになった。
そして1989年には以前から計画されていた【ヴィラージュ】が発売された。
このモデルはフォードのパーツが使われており、従来のアストンマーティンモデルよりも品質が向上した。
1990年代:フォード傘下でのDB
1991年にはフォードによる買収が完了し、新しい経営陣の下、改革が行われるようになった。
ジャガーのレーシングカー開発を行っていたトム・ウォーキンショーが率いる【TWR】主導の元、開発が行われた。
また、デイビッド・ブラウン氏を役員として再び招集し、この結果、1994年には、フォードの生産技術が投入された新工場でイアン・カラム氏がデザインした【DB7】が誕生した。また後に【DB7ザガート/AR1】も製作される。
フォード傘下になったことで、今まで投資ができていなかった生産設備や技術開発に資金が投入でき、この結果、新しいエンジンや高品質な車両の生産が可能となり、世界各国で販売台数が増加、経営状態も安定するようになった。
また、フォード傘下のグループ間での自動車部品の共有化も進み、これにより購買の経費削減やグループ全体での品質の向上が見られた。
2000年代:まさかの…
しかしながら、9・11テロによって原油価格の高騰や、リーマンショックなどの影響でアメリカ全体が不景気になり、フォードも例にもれず経営が悪化。これによりフォードはアストンマーティンの売却を余儀なくされた。
この間に、同社は過去のノスタルジックなデザインを復活させ、ヘンリック・フィスカー氏、イアン・カラム氏設計の下、【DB9】を発表。ヒット作となる。
そして、2007年にはイギリスのレーシングチームである【プロドライブ】創設者であるデイビッド・リチャード氏やクウェートの投資家に4億7900万ポンドで売却された。
彼らは、販売ネットワークの拡大を行うとともに、同時に新モデル開発も行った。
これにより、DB9のアップグレードモデルで【007 カジノロワイヤル】でデビューした【V12 DBS】、オーストリアのグラーツにあるマグナシュタイアー工場で生産されたラゴンダ2の後継となる【ラピード】、そして環境性に優れる小型車両のラインナップが必要だったことからトヨタと連携し、日本で生産後、イギリスに輸出しアストンアレンジを加えたIQベースの【シグネット】などの新モデル開発も行った。
2010年代:様々な資本グループ
さらに2012年にはイタリアの【インベスティンダストリアル】が37.5%株価を取得、2013年にはドイツの【ダイムラー】と提携。翌年の2014年には元日産自動車副社長のアンディ・パーマー氏が最高経営責任者に。
また、2016年にはメルセデスAMGのエンジンを搭載した【DB11】が発表された。
また2018年からはレッドブルレーシングと提携し、【アストンマーティン・レッドブル・レーシング】としてフォーミュラ1に参戦している。
というわけでアストンマーティンの歴史についてでした。
個人的には自動車メーカーの中で一番好きなメーカーだったのですが、あまり知らないこともあったので、勉強するとてもいい機会でした。
また、007シリーズ最新作の【NO TIME TO DIE】でも最新のアストンマーティン車が登場するようで、今からとても楽しみです。
それでは。
参考資料
https://matome.response.jp/articles/2120
AutoWise
https://autowise.com/the-history-of-aston-martin/