ダン・アリエリー著『予想どおりに不合理』を読んだ(四章)
今回の章、結論から言うと、部分的には賛成で反対でもある、という感じ。
というのも、今回の章はお金で支払うのかモノを与えるかのどちらかが良いか、ということを議論している場があるからだ。
自分はもっぱらの現金主義なので、頂けるのなら現金が好き。
ただもちろん、その手が好まれないケースもある。
例えば、友人を招いて食事でもするとして、そこで現金を渡されても少し受け取りにくい。その場合は何かお菓子などの方が好まれる。
こういう場合は同感で、自分もお菓子をもらいたい。
しかし、この章で例に出されたものとして、従業員に渡すもの、という節があるがそこではプレゼントを与えることで会社への忠誠心が高まる、というのである。
個人的にはそこは金額のほうがインセンティブがあるんじゃないのかなぁと思った。
まあ、時代もあるしなんとも言えないか。
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というわけで、
四章【社会規範のコスト】
-なぜ楽しみでやっていたことが、報酬をもらったとたん楽しくなくなるのか-
を見ていきたい。
例によって具体例から始まる。
内容は、義理の母の家でパーティーが開かれ、とても素晴らしいお食事をいただいたことに対して、どれ位の金額を渡せばいいか尋ねたら激怒された、という話。
この章でキーワードになるのが、"社会規範"と"市場規範"だ。
これを含めて説明していきたい。
確かに具体例にあるようなことに遭遇することはそこそこある。
誰かの家に招いてもらったりしたとき御菓子を持って行ったり、何か知らの手土産を持っていく。その際、現金は渡さない。
もしかしたら手土産が好きではないかもしれない、というリスクを持ちながら渡す。一方で現金であればその額で別の好きなことができる。
しかし私含め多くの人がそうしない。しないというより、何かがその行動を制止する。
結果的に無難な御菓子を持っていくことになる。
この正体は、マーガレット・クラーク、ジャドソン・ミルズ、アラン・フィクスが指摘している。それはつまり、私たちが二つの異なる世界―社会規範が優勢な世界と、市場規範が規則を作る世界―に同時に生きているからだ、というものだ。
端的に言うと、社会規範はお金を介さない思いやりやおもてなし、みたいなお金に換えられないこと。
一方で市場規範は賃金や価格など、あらゆるお金に関すること。
さらに言うと、社会規範は、私たちの社交性や共同体の必要性と切っても切れない関係でほのぼのしている。自分と相手もお互いに気分がよくなる。
アニメで言う、日常回みたいな。
市場規範は、ほのぼのさなんてない。賃金、価格、賃貸料などいろいろとシビア。
もちろんいい面もあり、支払った分に見合うものが手に入る。
まあ、バトル回みたいな感じかしら?
では、現在進行形で社会規範と市場規範に生きているわけだが、これを分けることはできるのか。
もしできるのであれば人生はかなり順調にいく、と著者はいう。
著者は例にセックスを挙げている。
社会的な状況、つまりカップルやそういう友達であれば無料で手に入り、愛情から心の糧となる。一方で売買されるケースもある。要求次第では手に入り、金がかかる。
これで済めばいいものの、社会規範と市場規範が入り乱れると問題が起こる。
ある男性が女性を誘って食事や映画に行き、デート代を払う。二度目のデートも男性が支払う。三度目も同じ。この三度目のデートでもそれ以上のことはなかった。
この段階で男性の財布は火の車だったが、頭の中ではそれ以上にヤバいことが起こっている。
男性は交際という社会規範とセックスにかかる費用という社会規範の折り合いをつけることに苦労し始めた。
四度目になり男性は今までのデートにいくら要しているか口にした。
結果は想像通りで、女性は離れて行ってしまった。
これはつまり、社会規範と市場規範を混同してしまったことから発生した。
社会規範に市場規範を取り入れたことで、女性を売春婦呼ばわりしているのと同等になってしまった。
では、お金の絡まない方が話が進むのか。
別の例を挙げる。人々がお金のためより自身の信条のために熱心に働くことを示す例だ。
全米退職者協会では複数の弁護士に話しかけ、1時間30ドルで、困窮している退職者の相談に乗ってくれないかと依頼した。
結果、弁護士たちは価格に見合わないとしてこれを拒否した。
しかしその後、相談に無報酬で乗ってくれないか依頼したところ、圧倒的多数の弁護士が引き受けた。
この現象はまさしく市場規範を用いたことによるものだ。
弁護士側は1時間30ドルという、金銭が関わった時点で市場規範にシフトし、時給にそぐわない金額だ、とした。しかし、金銭抜きで頼まれると社会規範を適用し、進んで時間を割くようになった。
つまり、思考の中に社会規範が一度でも入ってしまうと、社会規範に戻すことも消すこともできなくなってしまうのだ。
では、手土産やプレゼントは市場規範に当てはまるのか?
結論は当てはまらない。
つまり、ちょっとしたプレゼントでも気分を害する人はいない、それによって社会規範にとどまることができる、ということだ。
しかし、このプレゼントの金額を言ってしまうとたちまち市場規範にシフトしてしまう。要は、あなたの時間はこの金額ですよ、と直接言っているようになってしまうからだ。
場合によって社会規範と市場規範を分けないと、上記のように今までの関係を簡単にぶち壊してしまう。
金額を口にするのは場合によっては良くない時もある。
さて、冒頭で述べたように、社会規範が忠誠心を高める、という節がある。
アメリカの企業は社員都の関係に社会規範を確立しようとしているらしい。
実際にアメリカで働いたことがないのでわからないが、社会規範を用いることで従業員が熱心で勤勉になり、順応力や意識も高くなる傾向があるらしい。
つまり、社会的な報酬や名声を働き甲斐につなげるものだ。
で、従業員に渡すのはプレゼントか特別賞与のどちらがいいのか、という話になっていく。
もちろん、ここにはアメリカの経済事情が大きく絡む。健康保険のないことなど、日本と比較できないくらいに違う。
なので、結論もそれによって大きく異なると思う。
著者は結論として、プレゼントのほうが雇い主と従業員の社会関係を後押しして長期的なメリットをもたらすとしている。
個人的にはうーーーーんという感じだが、そういう結論らしい。
分からなくはないが、そうでもあるのかしら?というお気持ち。
そんなわけで、冒頭の考えに至る。
自信の仕事に本当の誇りを持っているとそうなるのかしら。
江戸時代にいた葛飾北斎は絵を描くことに夢中で、金銭には無頓着だったらしいが、これに近いのかしら?