ダン・アリエリー著『予想どおりに不合理』を読んだ(五章)
無料と聞いて何を思い浮かべるか。
ただほど怖いものはない?
いや、無料ならとりあえず持っていこう?
ただなら沢山貰っていこう?
そんな考えが過る。
確かに自分の生涯の中で一番欲しいものが”無料”で手に入ったならどれだけうれしいだろうか。
ASTON MARTIN DBSが無料だったら?
ん~、なにか訳ありなのかしら?
といった具合に心の底から楽しめなくなりそうな気もする。
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というわけで、今回は”無料”がどんな影響を与えるのか?という話。
では、第5章【無料のクッキーの力】
-無料!はいかにわたしたちの利己心に歯止めをかけるか-
を見ていきたい。
今回の章はサブタイトルのクッキーの話とは別の話題から始まっている。もちろん関連することだが、ここでは分かりやすくしたいため、クッキーの例から見ていきたい。
ここでなにをみたいのか、というと”無料のクッキー”と”有料のクッキー”、果たしてどちらが一人当たり多く持っていく(買っていく)のだろうか、というもの。
普通の経済学であれば、需要供給曲線を使わずともこれが”無料のクッキー”へと需要過多になるだろうから、一人当たりのクッキー数は多くなるはず、と予想できるが実際はどうだろうか、というのを検証している。
スーザンはクッキー作りがうまく、ある週末に100個のクッキーを焼いた。
そしてスーザンの職場には100人の従業員がいる。
週明けの勤務日、あなたは何個クッキーをもらうだろうか。
結果、多くの人が社会規範の重要さを念頭に置いて、一つか二つのクッキーを貰った。
もう一つ検証として、一つあたり5セントで買わないか、と尋ねた。
するとたくさん買って家に持って帰ったりすることに抵抗を覚えず、たくさんのクッキーを買っていった。
なぜ、無料の方より有料の方が売れたのか、それはそこに社会規範と市場規範があったからだ。
前述の通り、無料の時は社会規範が適用され、自分だけでなく自然的に他人のことを考慮に入れ、取り過ぎた場合への懸念から多くは取らなくなる。
しかし一方で、有料に設定したことで市場規範が適用され、無料時の社会規範を追い出してしまった。
このやり取りに金が持ち込まれた途端、”社会的”になにが正しく、何が悪いのかを考えるのをやめ、できるだけ多くのクッキーを手にするのだという。
これと似た実験をMITの学生にすることにした。
キャラメルを用いた実験で、学生に1つ1セントで販売するか無料で提供するか、というものだ。
大きな看板を出し、大々的に広告をした。
集客数は有料の場合は1時間に58人来たが、無料の場合は207人も来た。
ということは、有料から無料になるだけでこれだけ需要が増加するのか?と考えそうになるがそうはいかないらしい。
結果は反対だった。
有料の時、消費者一人当たりの平均数は3.5個だったが、無料の時は平均1.1個になった。
これが示すのは、学生たちは無料の時は単純な社会規範を適用し自制していたのだ。
つまり、やりとりに金銭が絡まない時、あまり利己的追及をせず、他者の幸福をもっと気にし始めることを意味している。値段がゼロだと製品はより多くの人にとってより魅力的になるものの、同時に人々は他の人のことを考えたり、気にかけたりするようになり、他人の利益のために自分の欲望を犠牲にするようになる。
しかし、金銭が絡む市場規範が入ってしまうと、この性向が抑えられてしまう。
ある製品に対して、元値から割り引いたりすることで需要は増加するが、下げに下げて無料にまでしてしまうと需要はかえって少なってしまうのである。
著者はさらに大きく見て、環境問題に言及している。
つまり、共有資源についてである。
その中でも二酸化炭素排出取引権利はこの社会規範と市場規範が入り乱れているという。
簡単に言うと、排出権には価格が設定されているのだ。(キャップ・アンド・トレード)産業や企業に環境汚染を減らすようにインセンティブを与え、決められた汚染量に対し、多ければ汚染割当量の購入を、少なければ差分を他企業に売ることができる。
汚染が少なければ利益になる、というものだ。
しかし、汚染に対して費用を請求されるだけなら、企業は費用便益分析を行い、環境をどのくらいまでなら汚しても良いと判断しかねない。
そして、環境汚染が市場になり、汚染を金で解決しようとしてしまうと倫理や環境配慮は取るに足らなくなる。
本来は共有資源には社会規範が用いられるべきだが、ここに権利費用などで市場規範が入ってしまうと、上記のように金で解決してしまうケースが多く出てしまうのだ。
と著者は警告している。
ここに関しての考え方は個人の自由になるが、意外と自分たちの身の回りでは、本来は社会規範だったものが市場規範にいつの間にかシフトし、問題の本質を見失っていそうなことがあるのだと感じた。
という私の感想だけ書いておく。