英国ジャガーの歴史(前編:1920年代スワロー・カンパニー~1950年代)
そんなわけで、ジャガーについての歴史について記していきたい。
ジャガーを選択した理由としては、私自身がジャガーが好きなメーカーであるという点と、所有している車がジャガーだからという理由からだ。
現在のジャガーは少し前までのラグジュアリーセダンやクーペ、コンバーチブルといったカテゴリーの車種だけでなく、F-PACEやI-PACEなどのSUVやEVなどの流行に沿った車種にも手を伸ばしている。
また、少し前にフルモデルチェンジされたXJも過去の同モデルと比較してもデザインが大きく変わり、一部賛否が分かれた。個人的には過去モデルのX350系も好きだし、現行のX351系も両方好みのカタチなので特に気にはしない。
そんな現行のジャガー。
今回はその歴史を見ていたい。
1.1920年代:スワロー・カンパニー時代
ジャガーの始まりは1922年から始まり、イギリスの自動車メーカーとしては比較的遅咲きと言われている。
オートバイ好きの2人の若者、ウイリアム・ライオンズとウイリアム・ウォーズレイがオートバイのサイドカーメーカーとしてスワロー・サイドカー・カンパニーを1922年4月に始めたのである。これが後のジャガーへと向かう。
両者が制作したサイドカーは意外にも好評で事業としては成功してた。そしてその後、1926年には事業拡大を行う。
この1926年の事業拡大により、乗用車のコーチワークを行うようになり、スワロー・サイドカー・アンド・コーチビルディング・カンパニーと社名を変更することとなった。
最初に行ったのは、かつてイギリスに存在した大衆車メーカー、タルボット社のボディを彼らのボディに乗せ換えることだった。これが評判となり、【よいスタイルであれば、少々高くても売れる】という哲学を持ち、オースチン・セブンをベースに手掛けた。
この車は、ツートーンカラーに塗分けたデザインで、内装もレザーを使った豪華な仕様のモノだった。
さらにオースチンだけでなく、イタリアのフィアット社やイギリスに存在したスタンダード社、スイフト社の車も手掛けるようになり、1927年には社名からサイドカーを外し、スワロー・コーチビルディング・カンパニーと社名を変更した。
いずれも販売は好調で多くの注文が入り、ビジネスが軌道に乗り、取引先からもっと拠点を近くにしてほしい、とのことから1928年にはイギリスの自動車工業の中心地であるコヴェントリーへと工場を移した。
コヴェントリーへ移転した後も好調で、翌年1929年にはロンドン・モーターショーに出展するまでの企業となった。
2:1930年代:SSカーズ時代
1930年代に入っても勢いは衰えることはなかった。
1931年にはスタンダード社のシャーシに架装したモデル、【SS1】と【SS2】を1931年10月のロンドンモーターショーで発表した。
そして1933年にこの2車種を販売し、ヒット作となったのだ。
これらのモデルは同じイギリス車でも上位クラスに属するベントレーをも思わせる見栄えのモノだった。
全体的に低い車高、長いボンネット、高級感のあるデザインでありながら、ベントレーの1/3の価格であったことから不況下でもヒット作となった。
しかしエンジンは大衆車メーカーのスタンダード社製のもので、エンジン性能は高くなかったことから一部からは”見かけだけの車”と揶揄されてもいたが、結果的にはマーケット戦略の勝利となった。
1933年にはイギリスで100社以上のディーラーを抱え込むようになり、社名もSSカーズに変更した。
1935年には、先の批評を打開するために、ボディだけでなくエンジンとシャシーを含む全てをオリジナル設計のモノに変更し、今までの路線から大きく変更したことを区別するために車名を【ジャガー】とし、【SSジャガー2.5】を発表。続いてスポーツモデルの【SS90】、【SS100】を投入した。
これらのジャガーは上品な内外装に加え、パワーアップされ強化されたエンジンと量産効果によるコストダウン効果により、ベントレーといった高級車に劣らないエンジン性能と内外装のデザインを可能にし、ライオンズの低価格戦略が継続されることとなった。
相方のウォーズレイは1933年の社名変更時の事業拡大に反対し、変更直前に経営陣から脱退した。
このようにしてライオンズの戦略、つまり設備投資や技術開発面で他社を使い、低価格でありながらデザイン性を優先させ事業を拡大し、最終的にオリジナルの自動車を製造するという作戦は功を奏したのである。
さらに、これらの成果として知名度を上げることに成功し、SSカーズはイギリスで知らない者はいない大手メーカーにまで上り詰めたのだ。
1939年9月から勃発した第二次世界大戦時には生産縮小を余儀なくされた。しかし、軍用車両の委託生産などで経営を続けることができた。
しかし、ドイツからの攻撃でコヴェントリーは多く被害を受け、同社工場も爆撃により甚大な被害を被った。
3.1940年代:ジャガー時代
理由としては、”SS”という文字がナチス親衛隊を連想させるとのことからで、これを機に1945年にジャガーカーズへと改称した。
コヴェントリー工場は前述の通り、甚大な被害を被ったため、しばらくは戦前モデルを作り続けていた。ニューモデルが発表されたのは、1948年のロンドンモーターショーであり、マークVと共に展示されたXK120は人々の注目を浴びた。
特にXK120は、3.4リッター直6気筒エンジン、160馬力、最高速度120マイル(約200㎞/h)という当時としては高性能なものだった。
この車両もライオンズの戦略を引き継いでおり、戦前モデルと同様に価格は抑えられ、アストンマーティンDB2(当時価格約2,000ポンド)に対し、1,263ポンドで手に入れることができた。ちなみに現在価格で換算するとDB2が約930万円、XK120は約600万円ほど。*1
これらの性能とデザイン、低価格性から好景気なアメリカを中心に各国で評判となり、多くが輸出され、商業的成功をおさめ、発展型のXK140やXK150も製造され、イギリスの外貨獲得に貢献した。
また、XK120の名声を高めたのは戦略だけでなく、レースの活躍もある。
1951年のルマン24hレースにこれをベースとしたレーシングカーを作成し出場。XK120Cと名付けられたこのマシンは、自動車市場で初めて4輪ディスクブレーキを搭載し、初出場のルマンで優勝を果たす。さらに2年後のレースでも優勝を飾り、のちにCタイプと呼ばれるようになった。
4.1950年代
1950年代は前述の通り、レースでの活躍がありさらに評判を得るようになった。
ルマンではフェラーリ、マセラティ、ベンツやポルシェなどのライバルを圧倒し3連覇を果たし、モータースポーツでの活躍を重ね名声を得ていった。
Cタイプは通称だったが、この後継車はDタイプと呼ばれ、これは正式名称として名付けられた。マグネシウム製モノコックを採用し重量はわずか1000㎏、エンジンは直6の3.4l で、出力は最高で250馬力に達するものだった。後の1955年にはエンジンヘッドとマニフォールドを変更し、270馬力まで出力が引き上げられている。
ドライバー後方にはスタビライジングテールフィンと呼ばれるフィンが備え付けられているのが特徴である。このマシンは1955年からルマン3連勝を達成し、ジャガーの名称をさらに高めた。この功績により、ライオンズは1956年にはナイトの称号を贈られている。
また、新たな市販モデルカーとしては1955年に2.4lと3.4lのコンパクトなサルーンが発売されている。
スモールジャガーと呼ばれたこのモデルは【マーク2】と名付けられ、小さいながらに四輪ディスクブレーキなどのルマンで培った技術を取り入れられており、1959年モデルで改良された3.8lエンジンでは最高速度が200㎞/hに達する性能を発揮した。
前編終
参考:
日刊自動車新聞社 牧野克彦 著『自動車産業の興亡』(2003)
https://gazoo.com/article/car_history/150227_1.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%83%BC_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)
Currency converter: 1270-2017
https://www.nationalarchives.gov.uk/currency-converter/#currency-result