イギリス映画の象徴:アストンマーティン(前編)
GW、いかかでしたか。
確か数年前は八丈島なんかに行っていた記憶が…。
さて、GW明けの第一弾はアストンマーティンについてです。
この前はジャガーでしたのでイギリス続きですね。
いやまあ、個人的にジャガーも好きなんですが、それ以上にアストンマーティンが好きなので取り上げただけなんですけど。
というわけで今回は、イギリスが誇る高級車、アストンマーティンについて見ていきたい。
さて、アストンマーティンというメーカー、それが有名になったのは映画の影響もあるかもしれない。
自分が初めてアストンマーティンというメーカーを知ったのは、007シリーズを見てからだ。
当時小学生だった自分が見たのは、ゴールデンアイとダイ・アナザー・デイ。
特に後者は映画館で見たので記憶としてはまだ残っている。
ゴールデンアイはN64のゲームで知ったくらいの知識だったし。
さて、このダイ~で登場するのが、同社の【V12ヴァンキッシュ】。
氷上のジャガーXKRとのカーチェイスはなかなかの迫力だった。
この時に出てきたヴァンキッシュに一目惚れしてから私のアストンマーティン信仰が始まってしまった。
ノートにはそれまでの車種を書いたりして、完全にカルト宗教のそれと化していたと言っても過言ではない。
次のカジノ・ロワイヤルでも継続してアストンマーティンが出てさらに歓喜。
その時出ていた車種は現行の一個前のDBS。
なんとも洗練されたデザインで、10年以上経った今でも世界で一番好きな車となった。
そんなこんなで、007のジェームズ・ボンドの愛車として確立したアストンマーティン。果たしていつから創業し、どんな紆余曲折を描いたのか。そんなのを見て行きたい。
創業
1903年、ライオネル・マーティンとロバート・バムフォードという2人の友人がサイクリングという共通の趣味を通じて出合った。
この2人が後のアストンマーティンを創設するメンバーとなる。
2人は1912年、フランスの名車であるブガッティ・プレシアに強く惹かれ、イギリスでも同様なコンセプトの車を作りたいと考えた。
そして、1913年、当時レーシングドライバーであったルイス・ズボロフスキー伯爵の支援の下、【バムフォード・アンド・マーティン】を設立した。
そして1915年、《シンガー》を改造したモデルを第一号としたモデルを使用してイギリスのバッキンガムシャーの村《アストン・クリントン》で行われたヒルクライムレースでマーティンが成功を収めたことから【アストン・マーティン】というブランドが誕生した。
1920年には、ズボロフスキー伯爵から資金供給を受け、フランスグランプリに参戦するためレースカーの生産を本格的に開始した。
1920年代:五里霧中
しかし、最初から上手くはいかなかった。
1923年にスポーツをベースとした市販車が出るものの、1924年にズボロフスキー伯爵がイタリアのモンツァサーキットでのレース中に事故で死亡してしまったのだ。
このことにより、会社は財政的に混乱。倒産してしまった。
次なる投資家のレディ・チャーンウッド氏から投資を受けるものの、経営は改善せず再度倒産し、マーティン氏が会社を去ることになる。
しかしこの後、レディ・チャーンウッド氏と投資家グループが会社を復活させ、【アストン・マーティン・モーターズ】という名前で会社を管理、製造をウェストロンドンのフェルサムへ移動した。
1926年には投資家のアウグストゥス・ベルテッリ氏がテクニカルディレクター兼デザイナーとなり、1937年までに【インターナショナル】や【アルスター】といった車種を生み出していく。
ベルテッリ氏は自動車デザイナーという自身の職だけでなく、車両の生産管理監督や、レースなども行うタレントがあった。
ルマンといった国際的に有名なレースに参加し、アストンマーティンに大きく貢献した人物ともいわれている。
このおかげで、1931年のルマンでは総合第5位に入る活躍を見せる。
しかし、依然として経営自体は良好とは言えず、効率の悪い生産方式やモータースポーツへの巨額な投資が影響し、1932年には再度経営危機に陥る。
1930年代:戦時下
この危機に対してアーサー・サザーランドが手を差し伸べる。結果、1936年以降はモータースポーツ関連への出資はやめ、【インターナショナル】や【アルスター】といった市販車の製造に専念することとした。
これにより経営が再建すると思われたが、そう上手くはいかず、第二次世界大戦が勃発してしまう。この大戦の前に700台の車両を生産したが、市販車の需要がなくなり、さらに航空部品を生産しなければならなず、車両生産を停止した。
この航空部品を生産したことで経営が成り立ち、生き延びることができた。
1940年代:救世主登場
第二次世界大戦終了後の1947年、イギリスの実業家で工業機械を主とする製造業グループの【デイヴィッド・ブラウン・リミテッド】の傘下に入る。さらに、倒産した高級車ブランドの【ラゴンダ】をも吸収合併した。この際、当時ラゴンダにいたベントレーの創始者、ウォルター・オーウェン・ベントレー氏もアストンマーティンに移籍し、エンジン設計にかかわることとなった。
そして1948年には戦後初、そして新経営の下で初の自動車、【DB1】が発表された。
1950年代:黄金期
1950年にはベントレーが開発した水冷直列6気筒2.6Lエンジンを搭載した【DB2】が発表された。
このように、傘下になってから立て続けに発表できるまで経営が回復した。
これ以降のモデルには【DB】の名前が付いたモデルがデビューする。また、1950年代後半にはDB傘下であることを強調するためにロゴにもDBの名前が記されている。
市販車の発表だけでなく、モータースポーツへの復帰も果たしている。
DB傘下になったことで資金調達が円滑に進み、第二次世界大戦後に復活したモータースポーツへの復帰も行い、1949年のルマンにも参戦し、この後も継続して参戦している。
また、2シーズンのみではあるが、1959年と1960年にはフォーミュラ1にも参戦し、活動範囲を確実に拡大していった。
1955年と1959年、1958年のルマンでは総合第2位に入賞。1959年のルマンでは【DBR1】がフェラーリやポルシェなどの強豪を抑え総合優勝するに至った。
しかし1959年には市販車に力を入れるという理由からモータースポーツから手を引いた。
前半終わり
後半からは資本の移り変わりがさらに激しく…
参考資料
https://matome.response.jp/articles/2120
AutoWise
https://autowise.com/the-history-of-aston-martin/