イギリス映画の象徴:アストンマーティン(前編)
GW、いかかでしたか。
確か数年前は八丈島なんかに行っていた記憶が…。
さて、GW明けの第一弾はアストンマーティンについてです。
この前はジャガーでしたのでイギリス続きですね。
いやまあ、個人的にジャガーも好きなんですが、それ以上にアストンマーティンが好きなので取り上げただけなんですけど。
というわけで今回は、イギリスが誇る高級車、アストンマーティンについて見ていきたい。
さて、アストンマーティンというメーカー、それが有名になったのは映画の影響もあるかもしれない。
自分が初めてアストンマーティンというメーカーを知ったのは、007シリーズを見てからだ。
当時小学生だった自分が見たのは、ゴールデンアイとダイ・アナザー・デイ。
特に後者は映画館で見たので記憶としてはまだ残っている。
ゴールデンアイはN64のゲームで知ったくらいの知識だったし。
さて、このダイ~で登場するのが、同社の【V12ヴァンキッシュ】。
氷上のジャガーXKRとのカーチェイスはなかなかの迫力だった。
この時に出てきたヴァンキッシュに一目惚れしてから私のアストンマーティン信仰が始まってしまった。
ノートにはそれまでの車種を書いたりして、完全にカルト宗教のそれと化していたと言っても過言ではない。
次のカジノ・ロワイヤルでも継続してアストンマーティンが出てさらに歓喜。
その時出ていた車種は現行の一個前のDBS。
なんとも洗練されたデザインで、10年以上経った今でも世界で一番好きな車となった。
そんなこんなで、007のジェームズ・ボンドの愛車として確立したアストンマーティン。果たしていつから創業し、どんな紆余曲折を描いたのか。そんなのを見て行きたい。
創業
1903年、ライオネル・マーティンとロバート・バムフォードという2人の友人がサイクリングという共通の趣味を通じて出合った。
この2人が後のアストンマーティンを創設するメンバーとなる。
2人は1912年、フランスの名車であるブガッティ・プレシアに強く惹かれ、イギリスでも同様なコンセプトの車を作りたいと考えた。
そして、1913年、当時レーシングドライバーであったルイス・ズボロフスキー伯爵の支援の下、【バムフォード・アンド・マーティン】を設立した。
そして1915年、《シンガー》を改造したモデルを第一号としたモデルを使用してイギリスのバッキンガムシャーの村《アストン・クリントン》で行われたヒルクライムレースでマーティンが成功を収めたことから【アストン・マーティン】というブランドが誕生した。
1920年には、ズボロフスキー伯爵から資金供給を受け、フランスグランプリに参戦するためレースカーの生産を本格的に開始した。
1920年代:五里霧中
しかし、最初から上手くはいかなかった。
1923年にスポーツをベースとした市販車が出るものの、1924年にズボロフスキー伯爵がイタリアのモンツァサーキットでのレース中に事故で死亡してしまったのだ。
このことにより、会社は財政的に混乱。倒産してしまった。
次なる投資家のレディ・チャーンウッド氏から投資を受けるものの、経営は改善せず再度倒産し、マーティン氏が会社を去ることになる。
しかしこの後、レディ・チャーンウッド氏と投資家グループが会社を復活させ、【アストン・マーティン・モーターズ】という名前で会社を管理、製造をウェストロンドンのフェルサムへ移動した。
1926年には投資家のアウグストゥス・ベルテッリ氏がテクニカルディレクター兼デザイナーとなり、1937年までに【インターナショナル】や【アルスター】といった車種を生み出していく。
ベルテッリ氏は自動車デザイナーという自身の職だけでなく、車両の生産管理監督や、レースなども行うタレントがあった。
ルマンといった国際的に有名なレースに参加し、アストンマーティンに大きく貢献した人物ともいわれている。
このおかげで、1931年のルマンでは総合第5位に入る活躍を見せる。
しかし、依然として経営自体は良好とは言えず、効率の悪い生産方式やモータースポーツへの巨額な投資が影響し、1932年には再度経営危機に陥る。
1930年代:戦時下
この危機に対してアーサー・サザーランドが手を差し伸べる。結果、1936年以降はモータースポーツ関連への出資はやめ、【インターナショナル】や【アルスター】といった市販車の製造に専念することとした。
これにより経営が再建すると思われたが、そう上手くはいかず、第二次世界大戦が勃発してしまう。この大戦の前に700台の車両を生産したが、市販車の需要がなくなり、さらに航空部品を生産しなければならなず、車両生産を停止した。
この航空部品を生産したことで経営が成り立ち、生き延びることができた。
1940年代:救世主登場
第二次世界大戦終了後の1947年、イギリスの実業家で工業機械を主とする製造業グループの【デイヴィッド・ブラウン・リミテッド】の傘下に入る。さらに、倒産した高級車ブランドの【ラゴンダ】をも吸収合併した。この際、当時ラゴンダにいたベントレーの創始者、ウォルター・オーウェン・ベントレー氏もアストンマーティンに移籍し、エンジン設計にかかわることとなった。
そして1948年には戦後初、そして新経営の下で初の自動車、【DB1】が発表された。
1950年代:黄金期
1950年にはベントレーが開発した水冷直列6気筒2.6Lエンジンを搭載した【DB2】が発表された。
このように、傘下になってから立て続けに発表できるまで経営が回復した。
これ以降のモデルには【DB】の名前が付いたモデルがデビューする。また、1950年代後半にはDB傘下であることを強調するためにロゴにもDBの名前が記されている。
市販車の発表だけでなく、モータースポーツへの復帰も果たしている。
DB傘下になったことで資金調達が円滑に進み、第二次世界大戦後に復活したモータースポーツへの復帰も行い、1949年のルマンにも参戦し、この後も継続して参戦している。
また、2シーズンのみではあるが、1959年と1960年にはフォーミュラ1にも参戦し、活動範囲を確実に拡大していった。
1955年と1959年、1958年のルマンでは総合第2位に入賞。1959年のルマンでは【DBR1】がフェラーリやポルシェなどの強豪を抑え総合優勝するに至った。
しかし1959年には市販車に力を入れるという理由からモータースポーツから手を引いた。
前半終わり
後半からは資本の移り変わりがさらに激しく…
参考資料
https://matome.response.jp/articles/2120
AutoWise
https://autowise.com/the-history-of-aston-martin/
英国ジャガーの歴史(後編:1960年代~現在)
さて、前編ではジャガーの始まりから戦後直後までの歴史を見てきた。
サイドカービジネスから始まり、価格を抑えながら高性能で上品な車作りに成功したジャガー。
このまま英国のラグジュアリーカーメーカーとしてリードすると思われたが、そう上手く軌道に乗り続けることはなかった。
そんな1960年代から見てみたい。
1.1960年代
1959年に発売されたマーク2はジャガーの名に恥じない、高性能でありながらも上品さを持つ自動車であった。このため、当時の市場には大きな影響を与えた。その人気は半世紀過ぎた現在もなお続いており、当時でも大人気となった。
このため工場を拡大する必要があり、1960年には高級車メーカーのデイムラーを340万ポンドで買収。これにより、コヴェントリーのデイムラーを傘下にし、増産体制をとることが可能になった。
またこの買収により、その後のデイムラーの車種はジャガーのバッジエンジニアリングモデル、つまり兄弟車種で占められるようになるが、グリル上部にある波打ったデザインのフルーテッド・グリルが残されるようになった。
そして、1961年。
あの名車が誕生する。
ジャガーEタイプである。
Eタイプは美しいボディーラインのみならず、直6気筒の高性能エンジンを搭載した結果、最高速度240㎞/hを実現し、瞬く間に人々の憧れの車となった。
あの、フェラーリの創始者であるエンツォ・フェラーリ氏も絶賛したことで有名だ。
この車はXK120の後継モデルであり、長いボンネットや流線型のボディーなどが特徴的である。
もちろんこの車にも価格を抑える戦略が用いられ、他社の同レベルの車と比較しても安く、アストンマーティンDB4の約半分程度の価格だった。
またこれと同時に、マークXも発表された。
見た通り、これは後のXJへとデザインが引き継がれていく。
モノコックボディーで見た目の割には車重が抑えられ1.9トンとなっている。
機構的にはジャガー4ドア車としては初めて四輪独立懸架が採用された。Eタイプに採用されたものを流用したものだ。
以上のように車作りでは好調であったが、経営の雲行きが怪しくなる。
1966年7月にイギリス最大の自動車会社グループのブリティシュ・モーター・コーポレーション(BMC)と合併し、ブリティシュ・モーター・ホールディングス(BMH)を結成した。
ジャガーはこれより前は売り上げ等の経営は上手くいっていた。しかしイギリス自体の経済は好調ではなかった。しかも当時はアメリカの自動車メーカーが勢力を伸ばしていたため、これに対抗もとい、生き残るために1952年にオースチンとナッフィールドが合併を行い、BMCとなった。しかしこれでも経営悪化が止まらず、さらにジャガー自身も経営が悪化し始めた結果、安定化のために合併を行った。
しかし1968年には、BMH自体が経営不振に。
これを重く見たイギリス政府はもう一つの資本グループであるレイランド・モーター・カンパニーとの統合を決意。ローバーグループも加わり、ブリティシュ・レイランド・モーター・コーポレーション(BLMC)となった。
このような混沌とし始めた経営の中、ジャガー最大の傑作といっても過言ではないモデルが発表される。4ドアサルーンのXJだ。
マークXのデザインを引き継ぎ、洗練されたデザインを持つ一台となった。
車重は1.5トンと軽量化され、運動性能も向上した。またボディーとサブフレームの間にラバーブッシュを挿入し、雑音や振動を遮断することに成功した。タイヤもダンロップと共同開発したもので、これも静穏性や振動防止に一役買うことになった。
この結果、ロールスロイスをも凌ぐ静粛性と快適性、サルーン以上の運動性能を実現し高い評価を受けた。
そして、この車が、あのイアン・カラム氏の感動を呼んだのだ。
しかし、これで安心はできなかった。
BLMCとしてグループ化した結果、作業員のレベルが次第にBLMCの平均に下げられることとなり、後に品質低下を呼び起こすことになってしまったのだ。
2.1970年代:ジャガーの冬
作業員レベルがBLMC平均に下げられ、さらに労働運動の激化により品質低下に陥った結果、販売台数が大幅に減少してしまった。また、ライオンズらの重鎮が高齢を理由に1972年に引退を決意。
これにより混乱に拍車がかかってしまう。さらにオイルショックの影響も加わり、世界的に自動車販売が激減。当然BLMCも大打撃を受け、5000万ポンドの借入金を抱えることになる。そしてついに1975年に国営化され、ブリティシュ・レイランド(BL)となる。こうして、BL体制のもとでXJが作られ、さらにEタイプの後継車としてXJ-Sが登場する。
だが、このBL、後にイギリスの悪しき象徴として語られるように、「状態化したストライキ、品質管理水準の低下、投資不足、政府の過剰介入、レベルの低いマネジメント、そしてこれらによる市場シェアの喪失」と評価されるように、とてつもなく残念なものだった。
この結果、XJ-Sは品質の低さやデザインが市場に受け入れられず、俗にいう「壊れるジャガー」が誕生してしまった。
そして、1979年にはジャガーの生産台数は5年前の半分以下にまで落ち込んでしまった。
そんな混沌としていた最中の1977年、BLの新しい経営者となったマイケル・エドワーズは会社の立て直しを図ろうとしていた。
3.1980年代:春の訪れ
とてつもなくカオスだった1970年代。しかし、1977年に新しい経営者、マイケル・エドワーズを迎えたことでよい方向へと向かっていた。
エドワーズはジャガーの独自性を評価し、ジャガーのトップとしてジョン・イーガンを抜擢する。そしてイーガンはジャガー立て直しのため改革を行うのだ。
1980年にイーガンは就任した。彼は日本企業のような品質管理システムを取り入れ、従業員の意識改革を進めた。ジャガーはイギリスを誇る高級車であり、それを作ることは誇りであるということを改めて思い起こさせたのだ。
さらに、取引先メーカーからのパーツ類の品質チェックの実施、経営陣と社員との品質に関する話し合い、顧客からの要望を聞き不具合対応などを迅速にし、改善活動を行い、不要な人材のリストラなどを進めた。
こうした努力の結果、品質は改善し、相対的に売り上げも伸びていった。
この結果、1984年にはサッチャー首相による民営化政策により、ジャガーはBLから離れ、再び民営化することに。
そして、1986年には新設計となるジャガーXJ6が誕生する。
またXJ-Sも伝送系やデザインなどマイナーチェンジを行い、この結果、技術面や信頼性の向上を実現し、新しいモデルとしてコンバーチブルを追加したことでアメリカで人気車種となった。
さらに1986年になると世界耐久選手権、WECにてXJR-8でシリーズチャンピオンを獲得。
1988年にはXJR-9LMでルマンに優勝するという好成績を収めた。
その後、1989年にはジャガーに可能性を感じたことからフォードグループが25億ドルで買収。フォード傘下になる。
その後、同時期に買収されたランドローバーやアストンマーティンなどと共にフォードの高級車部門であるプレミア・オートモーティブ・グループ(PAG)の一員となった。
4.1990年代
フォード傘下になったことで、パーツの共有化も進められた。
1990年代半ばになると2つのモデルが登場する。
XJ-Sの後継のXKとマイナーチェンジを受けたXJである。
XKはモダンなデザインでありながらも、Eタイプを彷彿とさせる流麗なクーペだ。一方でXJは原点回帰をし、初代を意識したデザインである。
このXJのデザインについて、イアン・カラム氏は「アメリカ人にデザインを制限されていた」と述べている。
機構についてはデンソーなど日本製品を用いり品質は向上した。
また、1999年にはリンカーンLSをベースにSタイプが開発される。
このSタイプはXJの下位モデルとして、新しい市場開拓のために開発され、フォード傘下になってから初めてのニューモデルだった。
しかし、アメリカナイズされた外装やそのまますぎるアメリカ車のメカニズムのため、短期間のうちにマイナーチェンジが行われた。
このマイナーチェンジにより改善され、最終的にスーパーチャージャーなどを搭載したり内外装の変更を行った結果、年間10万台を売り上げた。
さらにジャガー初の小型車種であるXタイプも市場に導入された。
これはフォード・モンデオのパーツを共有し、ジャガー初のフルタイム4WDとなっている。後にFFモデルも追加された。
そして1999年にはイアン・カラム氏がデザイン・ディレクターとして就任する。
5.2000年代から現在
Xタイプはアメリカでは3万ドルという低価格で販売され、市場規模の拡大を狙う試みであったが、売れずに販売不振、経営不振にまで陥ってしまった。
この時期からイアン・カラム氏がデザイナーとして活躍し始める。
2006年の二代目XKを皮切りに、2008年のXF、2010年のフルモデルチェンジしたX351型のXJのデザインを担当する。
しかし不況は止まらず、2007年~2008年にはリーマンショックによる世界的金融危機の影響により、フォードグループ自体が経営不振に陥り、PAGに属するブランドを売却せざるを得ない状況になった。
この結果、2008年3月にはジャガーはランドローバーと共にインドのタタ・モーターズに23億ドルで売却された。
この間もイアン・カラム氏がデザイナーを務め、2010年にはC-X75コンセプトカー、2013年のFタイプの監修も行い、その後もFペイスやIペイスなどに関わり、2019年に退社するまで、ジャガーのデザイン面で大きく貢献した。
そして現在に至る。
参考
・英国の魂ジャガー(1922年)
https://gazoo.com/article/car_history/150227_1.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%83%BC_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)
・エンツォ・フェラーリをして「世界一美しい」と言わしめたスタイル ジャガーEタイプ
https://www.excite.co.jp/news/article/NoswebJp_nosweb_580/
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%83%BC%20%28%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%29
英国ジャガーの歴史(前編:1920年代スワロー・カンパニー~1950年代)
そんなわけで、ジャガーについての歴史について記していきたい。
ジャガーを選択した理由としては、私自身がジャガーが好きなメーカーであるという点と、所有している車がジャガーだからという理由からだ。
現在のジャガーは少し前までのラグジュアリーセダンやクーペ、コンバーチブルといったカテゴリーの車種だけでなく、F-PACEやI-PACEなどのSUVやEVなどの流行に沿った車種にも手を伸ばしている。
また、少し前にフルモデルチェンジされたXJも過去の同モデルと比較してもデザインが大きく変わり、一部賛否が分かれた。個人的には過去モデルのX350系も好きだし、現行のX351系も両方好みのカタチなので特に気にはしない。
そんな現行のジャガー。
今回はその歴史を見ていたい。
1.1920年代:スワロー・カンパニー時代
ジャガーの始まりは1922年から始まり、イギリスの自動車メーカーとしては比較的遅咲きと言われている。
オートバイ好きの2人の若者、ウイリアム・ライオンズとウイリアム・ウォーズレイがオートバイのサイドカーメーカーとしてスワロー・サイドカー・カンパニーを1922年4月に始めたのである。これが後のジャガーへと向かう。
両者が制作したサイドカーは意外にも好評で事業としては成功してた。そしてその後、1926年には事業拡大を行う。
この1926年の事業拡大により、乗用車のコーチワークを行うようになり、スワロー・サイドカー・アンド・コーチビルディング・カンパニーと社名を変更することとなった。
最初に行ったのは、かつてイギリスに存在した大衆車メーカー、タルボット社のボディを彼らのボディに乗せ換えることだった。これが評判となり、【よいスタイルであれば、少々高くても売れる】という哲学を持ち、オースチン・セブンをベースに手掛けた。
この車は、ツートーンカラーに塗分けたデザインで、内装もレザーを使った豪華な仕様のモノだった。
さらにオースチンだけでなく、イタリアのフィアット社やイギリスに存在したスタンダード社、スイフト社の車も手掛けるようになり、1927年には社名からサイドカーを外し、スワロー・コーチビルディング・カンパニーと社名を変更した。
いずれも販売は好調で多くの注文が入り、ビジネスが軌道に乗り、取引先からもっと拠点を近くにしてほしい、とのことから1928年にはイギリスの自動車工業の中心地であるコヴェントリーへと工場を移した。
コヴェントリーへ移転した後も好調で、翌年1929年にはロンドン・モーターショーに出展するまでの企業となった。
2:1930年代:SSカーズ時代
1930年代に入っても勢いは衰えることはなかった。
1931年にはスタンダード社のシャーシに架装したモデル、【SS1】と【SS2】を1931年10月のロンドンモーターショーで発表した。
そして1933年にこの2車種を販売し、ヒット作となったのだ。
これらのモデルは同じイギリス車でも上位クラスに属するベントレーをも思わせる見栄えのモノだった。
全体的に低い車高、長いボンネット、高級感のあるデザインでありながら、ベントレーの1/3の価格であったことから不況下でもヒット作となった。
しかしエンジンは大衆車メーカーのスタンダード社製のもので、エンジン性能は高くなかったことから一部からは”見かけだけの車”と揶揄されてもいたが、結果的にはマーケット戦略の勝利となった。
1933年にはイギリスで100社以上のディーラーを抱え込むようになり、社名もSSカーズに変更した。
1935年には、先の批評を打開するために、ボディだけでなくエンジンとシャシーを含む全てをオリジナル設計のモノに変更し、今までの路線から大きく変更したことを区別するために車名を【ジャガー】とし、【SSジャガー2.5】を発表。続いてスポーツモデルの【SS90】、【SS100】を投入した。
これらのジャガーは上品な内外装に加え、パワーアップされ強化されたエンジンと量産効果によるコストダウン効果により、ベントレーといった高級車に劣らないエンジン性能と内外装のデザインを可能にし、ライオンズの低価格戦略が継続されることとなった。
相方のウォーズレイは1933年の社名変更時の事業拡大に反対し、変更直前に経営陣から脱退した。
このようにしてライオンズの戦略、つまり設備投資や技術開発面で他社を使い、低価格でありながらデザイン性を優先させ事業を拡大し、最終的にオリジナルの自動車を製造するという作戦は功を奏したのである。
さらに、これらの成果として知名度を上げることに成功し、SSカーズはイギリスで知らない者はいない大手メーカーにまで上り詰めたのだ。
1939年9月から勃発した第二次世界大戦時には生産縮小を余儀なくされた。しかし、軍用車両の委託生産などで経営を続けることができた。
しかし、ドイツからの攻撃でコヴェントリーは多く被害を受け、同社工場も爆撃により甚大な被害を被った。
3.1940年代:ジャガー時代
理由としては、”SS”という文字がナチス親衛隊を連想させるとのことからで、これを機に1945年にジャガーカーズへと改称した。
コヴェントリー工場は前述の通り、甚大な被害を被ったため、しばらくは戦前モデルを作り続けていた。ニューモデルが発表されたのは、1948年のロンドンモーターショーであり、マークVと共に展示されたXK120は人々の注目を浴びた。
特にXK120は、3.4リッター直6気筒エンジン、160馬力、最高速度120マイル(約200㎞/h)という当時としては高性能なものだった。
この車両もライオンズの戦略を引き継いでおり、戦前モデルと同様に価格は抑えられ、アストンマーティンDB2(当時価格約2,000ポンド)に対し、1,263ポンドで手に入れることができた。ちなみに現在価格で換算するとDB2が約930万円、XK120は約600万円ほど。*1
これらの性能とデザイン、低価格性から好景気なアメリカを中心に各国で評判となり、多くが輸出され、商業的成功をおさめ、発展型のXK140やXK150も製造され、イギリスの外貨獲得に貢献した。
また、XK120の名声を高めたのは戦略だけでなく、レースの活躍もある。
1951年のルマン24hレースにこれをベースとしたレーシングカーを作成し出場。XK120Cと名付けられたこのマシンは、自動車市場で初めて4輪ディスクブレーキを搭載し、初出場のルマンで優勝を果たす。さらに2年後のレースでも優勝を飾り、のちにCタイプと呼ばれるようになった。
4.1950年代
1950年代は前述の通り、レースでの活躍がありさらに評判を得るようになった。
ルマンではフェラーリ、マセラティ、ベンツやポルシェなどのライバルを圧倒し3連覇を果たし、モータースポーツでの活躍を重ね名声を得ていった。
Cタイプは通称だったが、この後継車はDタイプと呼ばれ、これは正式名称として名付けられた。マグネシウム製モノコックを採用し重量はわずか1000㎏、エンジンは直6の3.4l で、出力は最高で250馬力に達するものだった。後の1955年にはエンジンヘッドとマニフォールドを変更し、270馬力まで出力が引き上げられている。
ドライバー後方にはスタビライジングテールフィンと呼ばれるフィンが備え付けられているのが特徴である。このマシンは1955年からルマン3連勝を達成し、ジャガーの名称をさらに高めた。この功績により、ライオンズは1956年にはナイトの称号を贈られている。
また、新たな市販モデルカーとしては1955年に2.4lと3.4lのコンパクトなサルーンが発売されている。
スモールジャガーと呼ばれたこのモデルは【マーク2】と名付けられ、小さいながらに四輪ディスクブレーキなどのルマンで培った技術を取り入れられており、1959年モデルで改良された3.8lエンジンでは最高速度が200㎞/hに達する性能を発揮した。
前編終
参考:
日刊自動車新聞社 牧野克彦 著『自動車産業の興亡』(2003)
https://gazoo.com/article/car_history/150227_1.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%83%BC_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)
Currency converter: 1270-2017
https://www.nationalarchives.gov.uk/currency-converter/#currency-result
ひっさびさの投稿
書くことが思いつかなかったのと、体調が不安定過ぎたので、しばらく放置気味でした。
そもそも私自身中身があまりないから、どうも難しいわけでして。
なのでこの機に、私自身のトーク話題のブラッシュアップをしようと思う。
取り敢えず、話題整理しようかなと思う。
会話デッキみたいなものですね、はい。
1.自動車関連
→これは個人的に車が好きで、これについて何か書こうかなと思っている。
2.勉学関連
→これは今まで通りの内容で、行動経済学とかを書いていたけどそのうち国際経済学でも書こうかなと思う。
当時の教科書見ながらだけど。
3.サブカルチャー
→アニメとかVtuber関連みたいなの。
特に深堀もできそうにないような気もするけど、脳死レベルでの話。
4.映画
→3と似てるので省略
これ以外に、今後学んでいけたらなーと思うこと。
1.言語
→ロシア語を一時期やっていたので、これをやってみたい。
が、キーボード問題が大きすぎる…。
スマホからでしかキーボードできんしな…
2.AfterEffects
→これも今現在進行形で弄って自習している感じ
いずれ説明できるくらいになれればなーなんて。
こんな感じかしら。
というわけで、今週は一番上の自動車関連について書いていこうかなと思う。
意思表示的な。
各メーカーについて歴史掘り下げてみてみるのも面白いかなと。
というわけで今日は今後の指標まとめ、ということで。
おわり
007シリーズのガンバレルオープニングの部分だけを見てみる
こんにちは。
どうも、体調が優れず仕舞いの私でした。
珍しく変な頭痛やら、疲労感が半端なくて一瞬話題のウイルスかと思ったのですが、取り敢えず寝まくりました。
そしたら何とか普通に戻って、現状に至るわけです。
さてというわけで今回は、前回の007シリーズに続いて、007で必ず出てくるガンバレルシーン(オープニング)を少し詳しく見ていきたい。
何を詳しく見るのかというと、ご存じの通りボンドは6代続いている。
さらに一時期、ガンバレルシーンのみ出演していた演者がいる。
それぞれ必ずと言っていいほど癖のあるポージングをしている。
ある人は飛んで着地してから銃を構えるし、ある人は膝をついてから銃を構えるし、ある人は…
という具合にここでも個性が爆発している、といっても過言ではない。
ということで今回は、それぞれのポージングの特徴を見ていきたい。
作品ごとではなく、演者ごとに分けて見ていきたいので、項目自体は6代分+1人、すなわち7項目となる。
流石に作品ごと見ていくとキリがなくなってしまう…。
また、基本的に同じ演者の場合は大きな変化が見られないので、演者ごとにカテゴライズした。
稀に同じ演者でも変化があるものもあるが、それはカテゴリー内で説明する。
1.ボブ・シモンズ
いきなりボンド役の演者ではない方から始まる。
ボブ・シモンズ氏は演者ではなくスタントマンである。
記念すべき第一作の【Dr.NO】から【GOLDFINGER】までの作品でガンバレルシーンに登場していた。
この方の特徴はまずシルエット。
必ずシルクハットにスーツで登場する。これは後のショーン・コネリーにも継がれる。
さらに別の特徴としてはそのポージングである。
これ、写真だとかなり伝わり辛いので、ぜひ動画を見てほしいが、必ずジャンプをする。
上図のように、センター直前になると必ずジャンプをし、着地と同時に銃を構えるのだ。当然、身体はブッレブレで申し訳ないがクスッと笑ってしまう。
ボブ・シモンズ氏のポージングはこのジャンプするか否かで判別がつくといっても過言ではない。
2.ショーン・コネリー
初代ジェームズ・ボンドとして私達世代でも名前を知っている。
ジェームズ・ボンドの生みの親のイアン・フレミング氏より知られていそうなショーン・コネリー氏。
彼がボンド役として抜擢されたのは【Dr.NO】だが、その作品は前述のボブ・シモンズ氏がオープニングを飾った。
【GOLDFINGER】までは前述の通りだが、【THUNDERBALL】から【YOU ONLY LIVE TWICE】、【DIAMONDS ARE FOREVER】はショーン・コネリー氏本人が担当している。
服装はボブ・シモンズ氏と同様で、シルクハットにスーツというもの。
ジャンプはなくなった。
しかし、これもかなり特徴が濃い。
歩いてセンターまで行きその場で90°ターンを決めるわけだが、終始ふらっふらでこれもブレブレ。
右手で銃を片手で構え、左腕の肘下から水平に伸ばし、バランスをとっているような上半身と、左足を曲げ、右足は実質つま先立ちのような感じのポーズ。
不安定過ぎて常に上下左右に揺れている。
また、ポージングに移行する際も歩幅というか、歩調というべきなのかわからないが、それが合っていない気がする。
センターに着いた途端、足がバタバタしているのが動画を見ると分かる。
シルクハットでジャンプをせず、不安定ならショーン・コネリー氏といっても過言ではない。
3.ジョージ・レーゼンビー
【ON HER MAJESTY'S SECRET SERVOCE】の1作のみにしか出ていないジョージ・レーゼンビー氏。
ガンバレルシーンの流血から姿を消された唯一の方。
ジョージ・レーゼンビー氏もシルクハットにスーツでしたね…。
3人居たんですね…
さて、こちらも動画をぜひ見てほしい。
今までの2人と比べると格段に綺麗なポージングをしている。
謎ジャンプもなければ、センター付近で足がバタバタしている様子も一切なく、スマートさが伝わってくる。
落ち着いた足腰でセンターまで歩き、着いた途端、身体全身を使って90°曲げる。
そして流れるように右膝を床に着け、姿勢よくガンバレルに向かって撃つ。この際、左手は後方に回る。
この3人の中では一番綺麗だったと思うが、なんと、ジョージ・レーゼンビー氏だけ流血と共に姿を消されてしまう。
色々説があるが、本当のところは不明。
少し待遇がかわいそうな演者といっても過言ではない。
4.ロジャー・ムーア
ショーン・コネリー氏がボンド役として有名だが、こちらのロジャー・ムーア氏もボンド役として有名な方だと思う。
作品数だけで言えば、ショーン・コネリー氏よりも1作品多いため、ボンド役としては一番登場が多い。
【LIVE AND LET DIE】から【A VIEW TO A KILL】までの7作品に出演。
恐らく、現在のボンドとしてのポージングの基礎を築いたと思われる方。
今までの非効率的なポージングから一気に変わり、たったままでの射撃姿勢になる。
登場初作から【THE MAN WITH A GOLDEN GUN】まではシルクハットなしのスーツ姿。
その後の【THE SPY WHO LOVED ME】からはタキシード姿で登場する。
また、スーツ姿時の撃ち方は、撃つ際に右肘を左手で上から抑えるようなポージングだが、タキシードになってからは両手撃ちに変わっている。
姿勢はいずれも、左足を少し力を入れるように少し曲げ、右足で体のブレを抑えるような姿勢。
これまでで一番安定して、尚且つ効率的で、今のボンドポージングの基礎を作ったといっても過言ではない。
5.ティモシー・ダルトン
かのダイアナ妃から、若々しく活動的で本格的な新しいボンド像を築いた、ととても高い評価を受けたティモシー・ダルトン氏。
【THE LIVING DAYLIGHTS】と【LICENCE TO KILL】の僅か2作品しか出演していないが、その分存在感を大きく与えた。
これまでのボンド像とは路線が変わり、紳士でクールなイメージを与えた。
こちらも堂々とした足取りでセンターまで歩く。
その後、スムースに射撃姿勢に移行する。
歩幅も計算されているような歩き方で、ロジャー・ムーア氏以上に綺麗に勢いよくターンを決める。
ポージングは、ショーン・コネリー氏とロジャー・ムーア氏の中間といった感じで、右足を前に出し左足でバランスを整え、片手で撃ち左手で上半身のバランスを保っているような感じ。
オープニングからもクールなボンドを感じるといっても過言ではない。
6.ピアース・ブロスナン
個人的に一番好きなポージング。(偏見)
【GOLDENEYE】からデビューし、【DIE ANOTHER DAY】までの4作品で演じる。
ショーン・コネリー氏のようなタフさとロジャー・ムーア氏のユーモアさをバランスよく体現した方。
いや本当にカッコイイ。(偏見)
堂々と歩きセンターへ向かう。そして、立ちの姿勢のままスムースにターンを決める。
正直、歴代ボンドの中で一番綺麗なターンだと本気で思う。(偏見)
身体の上下変化がほとんどないし、左足で軸を取る際もスムースでストレスを感じさせない。ニュルッという感じで、革靴特有のキュッキュ音が出ないんじゃないか、ってくらいスムースに感じる。
その後のポージングも、銃口と視線が完全に一致しているため、確実に相手を狙っている感が出ているのが素晴らしい。
堂々と、そしてスムースにターンするため、我々がイメージするクールで確実に相手を仕留めるようなスパイ像を見事に体現しているといっても過言ではない。
7.ダニエル・クレイグ
・CASINO ROYALE
次回作、【NO TIME TO DIE】で最後とされているダニエル・クレイグ氏。
【CASINO ROYALE】からデビューした。
当時は金髪で、今までのボンド俳優の中では背が低い、といった理由から放映前から既にアンチサイトなどが作られてしまった。
しかし、そのような世間からの悪評判とは大きく異なり、【CASINO ROYALE】で00昇格前の野性的でコントロールが難しいボンドを演じ、新たなボンド像を築き上げ、全世界で大ヒットした。
また、ダニエル・クレイグ氏のボンドでは、今まで以上にガンバレルシーンが変更されている。
そんな【CASINO ROYALE】では歴代ボンド映画の中で初のトイレでのガンバレルシーンになる。
そのため、歩きでセンターに向かいターンし射撃する、という今までの伝統を覆すものだった。
今までの90°ターンから完全に背中からの180°ターンに変わり、勢いも従来の比ではないくらい荒々しいオープニングになっている。
また、ガンバレルのライフリング数もやたら増えている。
服装も今までのスーツから私服へと変更され、今までにない試みになっている、といっても過言ではない。
・QUANTUM OF SOLACE
【CASINO ROYALE】からの直接的な続編の【QUANTUM OF SOLACE】では、前作と比較してまた大きく変更され、従来のガンバレルシーンに回帰。
しかし、オープニングではなくエンディングに移動。
バレル内部の金属部分の反射は一か所になっている。
本作品では、歩く速さが歴代ボンド映画の中でも最も速く、センターでターンする時もかなり速い。キレッキレの動きとなっている。
ポージングはブロスナンタイプだが、ブロスナン以上に銃のアイアンサイトを用いて相手を定めている感が強調されている。
動きそのものは荒々しさがあるが、しっかりと殺す意志を感じるといっても過言ではない。
服装は今までのタキシードからスーツに変更されている。
このエンディングの際、バレルがタイトルの【Q】の内側に来るようになっているのだが、この部分をよく見てみるとセンターで射撃した後、左側に移動しているのが分かる。
今まではセンターで待機だったのが、左側に歩くという今までにないガンバレルシーンとなった。
・SKYFALL
【SKYFALL】からは、歩く速さは歴代ボンドとほぼ同じになっている。
ターンは相変わらずスムース。
しかし、射撃姿勢がアイアンサイトを覗かないものになっている。
従来のバレル内部よりリアル志向になり、バレル内部のアルミ感がより強調される。
この作品もオープニングではなくエンディングに移動している。
・SPECTRE
【SPECTRE】にてガンバレルシーンがオープニングに戻される。
さらに、原点回帰して全体的にセピアフィルターが用いられ、さらにバレルがクレイグボンド以前のモノに変更されている。
恐らく、ボンドの過去に触れるテーマになっているから過去のモノに変更されたのだと思う。多分。
野性的であったボンドが過去と向き合ったことで紳士的なものになっているように感じる。
・服装
おまけ。
服装を見てみると時代に合わせて変化しているのがわかる。
最初のボブ・シモンズ氏、ショーン・コネリー氏はシルクハットにスーツ。
次のロジャー・ムーア氏はスーツとタキシード。
ティモシー・ダルトン氏とピアース・ブロスナン氏はタキシード。
ダニエル・クレイグ氏は私服とスーツ。
服のスタイルは、ブロスナンボンドまではレギュラーフィット系のゆったり目なスタイルだったが、クレイグボンドではスリムフィット系なスタイルになっている。
というオープニングのガンバレルシーンに注視した内容でした。
おわり
体調を崩してた
明日書こう、という記事を金曜日に残しておいて書かず仕舞いでした…。
というのも、なんか体調がよろしくなくて。
なんだか頭が重い感じがずっとしてて、え?まさか…と思っていましたが、土日に寝ることに集中した結果、普通に戻った。
何だったのだろうか…。
一応、心配なので極力人と接触しないようにしよう…と思ったけど、これは前からだったわ。
まあ多分疲れから起因するものだろう。
しかしそんなことを言っている間にも、土曜日には過去最高の感染者数を出してしまったし、このコロナ、もう少し時間が掛かりそうだ。
いつになったら治まるのだろうかしら。
というわけで、明日は木曜の続きの007映画シリーズ系の話を書いてみたいと思う。
明日
あかん、明日かこう