熱中できないこと
子供のころ、何かに熱中したことがあっただろうか。
外部要因から強制されてやらなければならないことがあるのにも関わらずに、ましてそれの試験や期日が設けられているのにも関わらず、ゲームや運動、音楽といったものに熱心に取り組んだことはあるだろうか。
時間を忘れ、いつの間にか時間が経ち、一日が終わっていた。気付かないうちに夜更かししていた、なんかあっという間に過ぎていたなどなど。
私にはその経験がない。
常に勉強が優先されていたせいか、何かをやるにせよ勉強のことが頭をよぎり、さらに家族からゲームそのものを規制されていたことから、心から打ちこむのではなく、常に時間や親の機嫌をチラ見しながら遊んでいた。
私が思うに、子どものころに何でもいい何かに熱中したことがないと、成人以降になって多少影響を及ぼすのではないかと思う。
大人になり分かったことは、遊びでも仕事でも本当に熱心に取り組んだことがあるのとないのとでは、ストレスの解消法など、現実を忘れるためや気分転換のための手段に大きな違いが出るのではないかと思う。
何かに熱中したことがある人の場合、嫌なことがあった場合でも現実から少し逃避できやすくなるのではないだろうか。もちろん個人差もあると思うし、人それぞれ認識が違うから簡単に断言はできないが。
私は熱中して取り組んだことがあまりない。もちろん仕事をしていた時は、その期間はしかるべき仕事に取り組んだが、それとは別だ。
定義が難しいが、ここで言う『熱中』とは《継続的に自発的に長期的に取り組んだこと》としよう。
つまり、私は生産的な趣味というのを持ち合わせていない、ということだ。
何をするにしても中途半端に終わってしまう。
趣味がないわけではないが、それが継続することはないし、最悪三日坊主になる。
過去に話しを戻そう。
小学生時代だ。
小学生中学年くらいだったろうか、どうぶつの森(GC版)が流行した。
しかしながら中学受験のため、半強制的に放課後も勉強を強いられていた私はそれができなかった。
子どもというのは結構残酷な一面があり、私が取り残されると次第に疎遠になってしまうものだ。
流石にそれはあかん、と感じた私はここで頑張って親に購入を促した。
結果、何とか制限付きを前提に購入することができ、遊ぶことができた。
しかしそのころには遅く、別の流行が発生し、取り残された。
この時期から継続する意味を見出せなくなった。
その後は、高学年になったためさらに遊ぶことができなくなり、朝から夕方までは学校、放課後は隣駅の塾へ行き、22時過ぎに帰宅する、という軽く社畜のような毎日を過ごしていた。
さらに、日曜になるとスパルタ父の勉強が一日続いた。このスパルタはなかなかハードで罵詈雑言が結構あり、時には叩かれたりと(手加減はされたが)、正直なかなかメンタル的にやばくなり、最後の方になると日曜日だけ胃痛が発生し、寝込んでしまうという謎の病にまで冒された。
単にストレスというやつ。
気分転換といえば映画、という人もいるだろう。
映画に関しても制約があり、感想文を提出するというものだ。
確かその時の映画は、クレヨンしんちゃんのヤキニクロードだったかな。
流石に観た後にその制約をしらされたから、この映画では感想文を書かなかったが、それ以降は映画そのものを観なくなってしまった。
家でのテレビも制約があった。
テレビは1日1時間。ニュースオンリー。
もはや意味が分からない。
気分転換どころか、クソみたいなニュースを見るしか術がなく、全く意味がない。
さらにずば抜けてヤヴぇと思った事例がある。
確か小学生高学年のころ、とある模試を受けた。
成績は確か極端に悪くはなく、かといって良いというわけでもなかった。
つまり平均的な得点だったと思う。
だがこの成績表、私が学校にいる間に自宅に郵送されていた。
つまり、自分で確認するより先に親が確認できてしまうのである。
結果、親がそれに気付き、案の定叱られるか、と思ったら、家から追い出された。
冬なのにはだしで家から出されたのだ。おまけに「お前は俺の子ではない」という台詞付き。
流石に頭の整理ができず、理解が追い付かなくて、しばらくその場に立ったままだった。
暫くして母方の兄がたまたま登場し、なんとか家に入れたが、即効部屋に行った。
つまるところの話、勉強以外がほとんど制約されていたせいで、何もやる気が起きず、熱中できないのである。
このことが今現在の自身の人格形成に繋がっているというか、影響しているかはわからないが、この時から遊びにも『熱中できないこと』が始まっていた。
以上のことから、私の経験上、
子ども時代に熱中したことがない人は、大人になっても熱中できない、
という考えに至っている。
今なぜそれを思い出したのかというと、この数か月、何か自発的にすることがないか、と思いいろいろと探しては試しているのだが、全く熱中できないのだ。
何かに熱中できない人生ほどつまらないものはない。
子どものうちに何か熱中できるものがあれば、それを無駄にしてはいけない、と経験から結論づける。